罪悪感:自分を許せない

愛着・心理発達

キリスト教の中で育った私は「許し」という言葉を自然に使っていることがある(神は人の罪を赦した(字も違う)という教えなので)。そうでない方にはきっとピンとこないはずで、自責感や怒りを手放すという方がわかりやすいかもしれない。自分を愛することができない、他人を許せない人生は、とても辛いものだ。かといって、許してはいけないんじゃないか、許されるはずがないという考えがすぐに湧いてきそうだ。自分自身を認め、等身大の自分で生きるには、一体どうしたらいいのだろう?

自分を責めるというのは、自分自身を変えられるはずだ、努力次第で変われるはずだという考えが背景にある。それは、自分を良くしたい、役に立つ人間、価値ある人間であるためのモチベーションになるはずだったのだが、実際には自信を失い、絶望に打ちひしがれているのではないだろうか。自分を許すための第一歩は、自分を責めることで許し得る人間に変わっていくことはできないことを認めることかもしれない。

自分を責める生き方には、いくつかの原因が考えられる。自分が何か悪いことをしているからこそ罪悪感があるのだが、本当に自分に過失がある場合と、他人の過失がある場合とがある。この線引きは、なかなかに難しく、判断するには時間と手間がかかる。しかしながら、基本的に罪悪感は人を無力化する。自分を無力化している方が、生き延びやすい場合がある。相手が強大であれば、責められる前に罪悪感で自分をうち叩いておくことで罰を免れることができる(罰を免れても、不全感、空虚感に苛まれるのでとても辛いのだが)。

罪悪感は関係性の中で起こる。他者との比較であったり、応じられない要求への失敗に対する叱責や無視が続くとする。強迫的に努力しても、賞賛が得られることはない。結果として、無力感が混じり合った罪悪感を抱くことになるだろう。罪悪感で支配する人は少なからず存在する。「やってごらん、絶対大丈夫」と勧め、やってみると「なんでそんなことしちゃったの?」と言う人がいたりする。このような場合、支配することで得られるコントロール感や不安の解消に問題がある。あなたの何が足りないのか、あなたがなぜ存在するに値しないのか、はっきりとした答えがないのであれば、このような関係性の中で学んだ罪悪感なのかもしれない。

いずれにしても、自分を許すこと、受けた傷を癒すには、自分の決断と行動が必要になる。自分を打ち叩くことよりは、成長を目指した方がよいし、変えようがないことであれば、変われない自分を受け入れてくれる場を探した方が良い。絶対に許されないと思っても、人と交わっていくと、多くの人が同じように抱えている問題に気づくこともある。変われないと思っても、ちょっとしたきっかけで変われることもある。変えられるのか、変えられないのかの判断は、非常に労力を要する。この葛藤が長く続く人は少なくない。

いずれにしても、私の考えは、罪悪感は人を変えないということだ。罪悪感に葛藤する人は、開き直ることもきっと難しいはず。私自身は、「変われるはず」、「変えられるはず」という期待を一度手放し、「自分にはできない」、「やりたいと思えない」と宣言することにしている。成長、賞賛、成功、理想に囚われると、本質から遠ざかっていくことが多い。逆に手放すと、道が開けることが多いとも言える。

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