生きにい人に贈る言葉

愛着・心理発達

最近、「生きにくい」という言葉をよく聞くようになった。そもそも生きにくさとは、何であろうか?愛着障害、HSP、アダルトチルドレンなどが、その代名詞になっている気もしないではない。それぞれに定義があるとして、共通することは、通常は心配のない範囲の事柄に強い不安を覚えること、罪悪感や恥の感覚が強く、それに駆り立てられる行動で生活がうまくいかないこと、そして対人関係で本音が言えない、過度に相手に合わせる、過剰な努力で疲弊などが共通点になるだろうか。

個人的に、生きにくさとは、他者との関係の中で起きる感覚だと思っている。打ち解けない、理解されない、繋がっている感じがしないために、他者と接近すると強い不安感、違和感が生じるのである。その感覚は、非常に耐えがたいが、何が問題なのかがはっきりしないことが多いのではないか。一方で、命が削られるような生物学的な感覚があるのだ。ここで、私は安全な関係の必要性を引き合いに出すのだが、他者に接近して、自己開示をして拒絶されず、関心を持たれ、さらに相手の理解をして共通点と相違点を見つけて、関係が存続するという「証拠」を持って、生きにくさが解除されていく。生物学的な感覚は現存するが、目の前の相手とは、繋がれるという体験が治療になる。

なぜこのような経験が欠如すると、生きにくさに繋がるのか?これは、愛着理論であったり、発達性トラウマであったりが、説明をしているが、私個人としては、虐待やネグレクトがなくとも、自己開示がなんらかの理由でできない環境下にいることで、生きにくさが生じると思っている。それが幼少期であれば、影響は非常に大きい。自己開示ができない環境下とは、家族の多忙、病気、両親の不仲、本人の多忙によっても起こりうる。例えば、健全な生育歴を持っていても、全く話を聞いてもらえなかったり、一方的な叱責が多かったりすると、自分の心が見えなくなる。具体的に言えば、何をやっているのかわからない、目的が見えない、感情が抑えられないなどの、抑うつともいうべき症状が出現する。

あ幼少期に吸収したことは、無意識的、かつ自動的に再生されやすい。そして、それを変えようとすると、違反行為をしているかのような考えと、生物学的な危機感が身体に生じることになる。その点で、習得した生きにくさの軽減には、時間がかかると言える。これらの事柄は、人間関係の中で身につけたものなので、人間関係の中で修正される必要がある。この点が、障壁になりやすい。信頼できないとか、依存しすぎてしまうなどの問題があるので、回復プロセスを途中下車してしまう、または開始するのに躊躇してしまうことが多い。少なくとも、そう思うのはあなただけではないということだけでも、覚えていて欲しい。

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