罪悪感はどこからくるのか?

対人関係・愛着

心理臨床においては、罪悪感を取り扱う頻度は非常に多いと言える。「あなたは悪くないよ」であるとか、「がんばってやっているよ」というような言葉を言いたくもなるが、あまり役には立たないことが多い。「なかなかそう思えない」とか、「わかっているけれど、自分が悪い人間だと思えて仕方がない」という返答が返ってくるからだ。罪悪感は、うつの基本的な症状でもあるし、PTSDや持続性複雑死別障害(複雑性悲嘆)においもて、生存者罪悪感(survivers guilt)が生じることがある。

罪悪感には、人を助ける側面もある。自分を戒めるとか、他者の利害に目を止めるとか、利己主義を抑制することがあるからだ。もう一つ臨床して思うことは、罪悪感を抱いて、自分を悪いもの、間違ったものとみなしていることで、生き延びることができるという方略的な側面だ。虐待や過度な叱責をする養育者を持ったとしよう。反論すれば、容赦ない暴力や叱責が返ってくる。当然、どこかで反論を止めるようになる。それでも、理不尽感や恐怖感は多少なりとも心の中にあるはずなのだが、それを表出することはできない。では、この怒りや不満をどう収めるのか?自分を悪いものを見なし、自分を思しめることで、怒りを抑制することができる。それはそれで苦しいことだが、目の前の脅威から身を守るためには十分な効果がある。つまり、落ち込んでいる方が、俯いている方が、さらなる攻撃を受けずに済むとということだ。

ポリフェーガル理論というものがあるが、まさに感情を麻痺させることで、脅威から身を守る人の防衛について指摘している。ただ、これが嗜癖的になると、意識が飛ぶ、無力感に苛まれる、孤独感や虚無感が振り払えないなどの状態にもなり得る。私が好きな心理療法の中で、メンタライゼーションというものがある。これは心を見渡す力を養うことが中核理念にあるが、他者のフィードバックを利用しながら、自分の心を言葉で表現する練習を行っていく。罪悪感、心の麻痺状態も、言葉で表現することができるようになると、その意味を理解したり、少しずつ抜け出す速度が速くなっていく。言葉で話すことでそんなことが起こるのかと疑う声も聞こえてきそうだが、人間だけが言葉を話すことを許され、言葉を話すことで、感情をコントロールするように設計されているのだと私は思う。

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