要求が絶えない人(自他境界線の軽視)

自他境界線

自他境界線とは、人と他人とを分かつ境界線のことである。具体的には、個人的な選択を持って、自他にYesとNoを言うことで自他境界線が作られている。他人と自分とが混同することで、親子関係、夫婦関係、上司との関係に様々な問題が起こる。その中で、相談が多い事柄の一つで「要求が過剰な人との関わり方」だ。自他境界線とは、望まない要求や不適切な言動に対してNoを言うことだが、このNoを受け取れない人がいる。Noと言うと、必死の抵抗にあったり、完膚なきまで批判をされることで逆に罪悪感を抱かされてしまう。

例えば、思春期の子供が、親に対しての要求が過剰になることがある。親は実に献身的に子の要求に応えている。要求に応えないと、暴力が起こったり、物を壊したりする。近所にも怒鳴り声が響き渡るため、要求を飲まざるをえない。子供の自主性を重んじて、好きなことをさせてきたのに、どうしてこのような構図になってしまったのかを悩んでいる。問題が深刻化するケースでは、親の能力や限界が高く、子供の期待に応えられるキャパがある程度あることが少なくない。

自他境界線とは、「相手の意思を尊重すること」だと思われがちだが、それだけでは自他境界線は構築されない。相手の求めることだけに応えていっても、その子供は満足を見出すことはできず、刹那的な刺激を求めるばかりになってしまうのだ。人の成長には、受容と何か良いことをして称賛されることが必要になる。ここで必要なのは、相手の欲求や辛い感情を丸抱えできないことを認めるという限界設定必要がある。これは、なかなかに大変なことで、罪悪感であったり、相手の抵抗に折れてしまいやすい。ただ、子の求めに応えても、その子の真の充足はやっていこないのだ。

私自身も経験してきたことだが、「他人は自分を丸抱えしてくれない」、「人生に課せられた孤独や虚無感を引き受けなくてはいけない」、つまり「人のせいにはできない」と認めるのは、とても辛く、自分で責任を取ることは怖いことでもある。抑うつが起こることもある。ただ、この底つきこそが、その人を成長させる。丸抱えはしてくれない他人に歩み寄り、不完全な他人と関係を築く上で得られる「一体感」に喜びを見出せるようになる。これが、ある意味では大人であると言える。いわゆる「依存心」の問題がここにある。依存心は完全に満たされないことを認めることが、逆に充足に繋がっていく、「依存心」を底なしの欲求として表現する人もいれば、欲求を完全に抑圧する人もいる。

いつかは報われるのだろう、いつかは理解を得るのだろうと、強く願っている人がいる。ある人にとっては、この期待が生きる目的そのものになっていることだろう。ただ、この期待は、疲弊を産み、虚無感を強めていくことになる。関係は安定したものにならず、結局お互いの孤独感が深まってしまう。誰かとうまく付き合っていくのであれば、限界を設定し、犠牲的な献身をさけ、ゆとりが持てる範囲で相手を支えるほうがよい。そんなことは、わがままだと思う人がいる。でも、自分が疲弊して相手を責めたり、絶えきれなくて関係を断絶してしまうよりは、限界を明確に設定した上で、関係を続けていく方が「愛」と呼べるのではないだろうか。