強迫的配慮(加害強迫)

強迫性障害

今回は、強迫的配慮(加害強迫)が起こる理由について、日々の臨床から思いつくことを書き記してみたい。誰かを傷つけてしまったとんでもない迷惑をかけてしまったと気に悩んだ経験はないだろうか?責任感が強いとも言えるが、過剰になると、生活に支障をきたすほどの配慮に発展していくことがある。強迫性障害の症状の中に、加害強迫というものがある。加害という名前の通り、「誰かに危害を加えてしまうのではないか?」と考えると、強い逸脱感が生じ、危害を加えていないかを過剰に確認する状態を言う。ここでは、あえて強迫的配慮という言葉を用いて、説明を加えていきたい。

よくある強迫的配慮は、

  • 何か相手に不愉快させることを言ってしまった、またはしてしまったと思い悩む
  • 弱者をつまづかせてしまったと思って、すれ違った人の後をついて行って確認する
  • 車の運転の最中、誰かを轢いたのではないかと考えて、その場所に戻る
  • 1日の行動を思い出したり、メモに書き出したりして、問題がなかったか確認する
  • 加害を避けるために人混みを避ける、車の運転をしない
  • 近所への迷惑が怖いので火の元の確認をする
  • 家族、子供の食事、薬、衣服などを確認する
  • 個人情報を漏洩してしまうのではないか

などである。問題となるのは、何度確認しても、何度しっかり見ても、大丈夫だと思えないということだ。そのため、繰り返しの確認がやめられなくなる。確認を長時間続けると、だんだん冷静さを失い、疲れていく。すろと、見落としたのではないかという疑念も生まれ、より大丈夫だと思えないのだ。こうなると、確認をやめたくてもやめられない。不安が強くなると、実際に見落としが増えたり、記憶が抜けたりもするため、確認がエンドレスになっていく。では、どういう人が加害強迫になりやすいのかについてお話ししてみたい。

責任感が強かった

規則を守ることで安心するタイプと、規則があると堅苦しく感じるタイプの人がいる。心理学では、規則や常識に忠実な人を、誠実性が高いと表現することがある。規則や常識に則って行動するタイプの人は、規則通りに物事に取り組むので、周囲から信頼され、弁護士、警察官など、法律や規則を守ることで成立する職業には欠かせない存在だ。ただ、樹偉大な責任のある立場になったり、不祥事や情報漏洩などが起こったことをきっかけに、非常に不安が強くなってしまう人がいる。規則を完璧に守らないと立場が危うくなったり、減給になったり、今後の活動が制限されたりする場合が出てきたりするからだ。それだけではなく、所属している機関や職場の人々に迷惑がかかってしまうこともあるだろう。責任を果たすことに没頭しすぎると、ちょっとしたミスや不手際がものすごく気になる。強迫性障害のレベルになると、規則を守ることが目的であるというよりは、不手際について考えるだけで不安になり、確認を繰り返してしまうことが多い。

叱責に対する恐れ

過度に叱責する家族がいたり、情緒的に不安定な家族と同居している場合、その家族を荒れさせないために、先回りをして行動する習慣を身につける人がいる。長い間そうしていると、常に叱責を警戒することが癖づいているかもしれない。例えば、両親のどちらかが、ひどく心配性で、感情的に激しかったとしよう。学校で友達の筆箱を壊してしまったとか、喧嘩をしてしまったとかをその親に話すと、クレーマーのように学校に怒鳴り込んで、大騒ぎになってしまうかもしれない。当然、その後の友人関係に影響する出来事になるだろう。こう言った家族と揉めないようにするためには、とにかく怒らせないように気をつけるか、自分はきちんとやっているということをアピールしなくてはいけない。すると、いつも気を遣うとか、警戒するといったことが習慣的になり、何か間違いをしていないかとアンテナを張り巡らすことが増えていく。このような人に強いストレスがかかったり、先回り行動が過剰になることで、加害強迫的になり、過度に人の迷惑を恐れる状態に発展することがある。

叱責された経験が少ない

逆に、叱責されずに育ったという人もいるだろう。そのような人は、幼い頃から、周囲からよく褒められ、肯定的に接してもらってきたかもしれない。ところが、社会に出てから痛烈に批判されたり、悪意のある人に騙されたりすると、自信を失い、過剰に自分の立ち振る舞いを気にするようになることがある。人間にとって、肯定されることは大事なことだが、適度に批判されたり、衝突することも大切だ。なぜかというと、生きていくためには、自己主張をしたり、意見が合わない人とでも、そこそこ一緒に過ごせたりする打たれ強さが必要だからだ。人間社会は厳しいところがあり、悪意のある人や共感性のない人も共存している。優しい人と過ごすことで、逆に打たれ強さを身につける機会が少なくなることもあるのだ。

共感性が高すぎる

責任感が強く、他人が辛い思いをしていたり、不愉快な思いをしていたりすることに、よく気づく人がいる。このような人は、共感する力が高いと言える。共感できるということは、想像力が高いということにもなる。その共感力の副作用として、自分の言ったこと、やったことで、周囲にいた人がとても苦しむ、苦労するところを想像してしまうのだ。その結果、罪悪感や不安でいてたまれなくなるというわけだ。それが過剰になると、食事に健康に悪いものを混入させてしまうとか、病気を移してしまう、不吉なことが起こるというような考えに苛まれる人もいる。自分が人を苦しめることに関与していることに耐えられないのだ。人は脆くて、危うくて、弱いから、自分が絶えず気を配らなくてはならないと考える人もいる。自分が責められることが堪え難いから、自分の言動を絶えず確認したり、責任を過剰に取ろうとしてしまう。強迫症の加害強迫の中には、このような心理が見え隠れすることが少なくない。

強迫的配慮(加害強迫)加害強迫を和らげるヒント

実際に恐れていることは起こらないと理屈でわかっても、怖いのが加害強迫だ。前提として、誰もが加害するリスクがあり、加害に対する対処(賠償や弁償)はある程度可能ではある。漠然と将来起こる不利益を想像している人は、正しい情報を手にに入れてもらいたいと思う。特に社会的に許容されない内容の思考で悩んでいる人は、他人に聞けないことが多い。誰にも聞けずに過ごしていると、頭の中ではまずます考えたくないことでいっぱいになってしまう。

何事もバランスが大事だ。現実的にはそれほど叱責や批判が起こらないのに、ほんの小さな確率で起こることを恐れている人がいる。しかしながら、叱責や指摘はある程度は避けられないものだから、適度に受け止めて、適度に聞き流していく姿勢もある程度は必要だろう。例えば、目上の人と話をしていて、話が弾んできた時にうっかりタメ口になってしまったとしよう。こういったことであれば、「すみません、言葉遣いが変になってしまいました」と謝罪すればことなきを得ることが大半ではないだろうか?それなのに、ずっと何日も気に病んでいたり、相手が怒っていないのに、自分を責め続けているのは、強迫的思考だと言える。逆に、上司、先生など、指導的な立場にある人々が、「君のやり方は変だ、治したほうがいい」と言うのは、彼らの役割を果たしているからである。ある程度は聞き入れて直していく、明らかにできないことは免除してもらうことが必要だ。一方的に叱責したり、パワハラ、モラハラをする人は必ずと言っていいほどどこにでもいる。なので、上手に身を守る強さも必要だと思う。

思考と現実は違う

不安になると、自分があり得ないことをしてしまったという思考が頭を駆け巡り、想像と現実の区別がつかなくなることがある。これを思考と現実の混同という。不安が高まっていくと、理性が効かなくなり、心配は現実としか思えなくなりがちだ。そのことばかりを考えていると不安がより高まり、ますます思考の現実感が増していく。その渦中にある人は、自分を客観視することが難しいものなのだが、今の悩みが脳内で出来上がってしまった仮装現実かもしれないと思えたら、回復への次のステージに進んだと思ってよいだろう。

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