承認欲求

自己理解

承認欲求に関しては、2種類の人がいるように思う。承認欲求の強い人承認欲求を隠す人に分けることができるだろうか。承認は人にとって必要なものであるし、人を苦しめる要因のひとつでもある。承認されることによって、自分の行いが十分であることを知ることができるし、喜びを共有することもできる。承認される経験を経て、自分の好みや興味も育まれていくだろう。逆に承認がないと、自分の努力をどこで行いを止めたらいいかがわからない。もちろん自分の満足いくタイミングでやめればいいのだが、満足の上限がわからず倒れるまでやめられない人がいる。絶えず努力をし、十分なレベルに到達しても、さらなる努力を続けて終わりがない。それでも、手を止められなかったり、努力するという選択肢がある限り、手を止めてはいけないという高い要求基準を自分に課す人もいる。

自分が満足いくレベルというのは、他者とのやり取りの中で身に付く。他人の評価に惑わされず、自分の好きなことをやればいいという個人主義的な意見が聞こえてきそうだ。私はそれを否定する気はない。しかしながら、自分が心地よいと感じる活動を行い、周囲の誰かが喜んでもらう、自分の喜びを共有できることで、自分の行動が自他のメリットになる感覚を持てる。この感覚があるからこそ、焦燥感を持たず、興味に基づいた自己鍛錬を行い、結果的に才能として開花することができる

周囲の反応があまりになかったり、気まぐれに承認する人と一緒にいると、行動の結果に承認があるという見通しが立たない。すると、完璧主義的になったり、相手を否応無しに承認させる過激な行動が必要になる。早々に承認を諦め、自暴自棄になる人もいる。または、過度な承認欲求が不満と不全感を強め、生きづらさを生むこともある。強迫症、摂食障害、嗜癖障害の背景には、そんな承認欲求の心理が見え隠れする。承認欲求を適度に求められない人は、自分の中だけで快と不快の目盛りを作る。その目盛りがいつしか、非現実的なものになってしまい、さらに手放すことができない状態になると苦しい。過度な承認欲求がある人は、承認が得られない寂しさを感じられるようになること、承認に値しない自分を認めることが必要だ。承認欲求の葛藤は誰もが持っている。多くの人は、承認されない哀しみ知っており、心通う友となる時にその現実を知ることにもなる。

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