怒る人との関わり方

対人関係

時々、人の怒りに直面することがある。関係性を育てる上で必要な建設的な怒りもあるが、自分を守るために人を責める怒りもある。理不尽な怒りに直面する時には、どうしたらいいのだろうか?理不尽な怒りは、不愉快だが、強い説得感がある。金の無心のためにやってきた友人に、白状だ、無神経だと強く罵られると、自分は冷たい人間なのだろうかと思えてしまう。強い怒りに向き合うときに、自他境界線を意識することが必要だ。詳しく考えてみよう。

怒る人に対峙すると、要求を拒否することが極端に難しくなってしまう。なぜかというと、怒られると悪いことをしているような気分になってしまうからだ。悪い自分は、謝罪し、相手の要求を飲まなくてはいけないと自動的に考えてしまわないだろうか?例えば、私がレポートの添削を依頼されたとしよう。時間があまり取れない私は、ざっくりとしか見れないけれどよいか?と確認し、それでもいいという返事を得た。限られた時間の中、なるべく有用なコメントができるよう心がけて準備をした。ところが、その私がコメントしたレポートを見て、友人は、こんなことくらい自分でわかる、頼んだことは時間の無駄だったと激しく怒りだした。

確かにコメントがその友人の希望に叶ったものではなかったのは事実だろう。友人を喜ばせるコメントができなかったのは、私の能力の限界である。もう少し努力できたかもしれないが、私の持ち時間でできるのはこれが精一杯だった。だが、相手にも責任はある。限られた時間がない私に依頼したこと、満足がいかない結果を受け入れる必要があること、より良いコメントを得たいのであれば、私と交渉をすることなどが必要だろう。このプロセスを踏まずに、批判だけをするのは、友人が自らの責任を放棄している事になる。

怒って他人をコントロールする人は、他者の立場、権利、主張を配慮し、交渉をするという責任を放棄している。責任を放棄した人に、自由を与えると、さらなる支配を産むことになり、要求はますます増えていく。このような形で要求をする人は、要求に応えても満足しないため、更なる要求を繰り返すことになる。だから、その人が他人の境界線を尊重できるようになることを願って、限界を設定していくことになる。冷たいと言われるかもしれないが、一時的な要求への応答で支配とコントロールに酔わせてしまうことの方が、長い目で見るとその人の害になる。なぜかというと、自他境界線を尊重しない人は、結果的に孤立していくからだ。

怒る人には、罪悪感を抱きやすいと思うが、一旦立ち止まり、距離を取り、自分と他人の責任を分けることができるようになることが重要だろう。