人間関係に見る愛着

対人関係

私が愛着という言葉に目を向けるようになったのは、耳鼻咽喉科の患者さんと話をするようになったことがきっかけだった。痙攣性発声障害という声の病気があるのだが、愛着の課題が解消した時に、声が出るようになったというのだ(色々な条件が重なったのとも思うが)。それまでにも、神経内科で運動疾患(体の動きに関連する病気)のカウンセリングをしてきたが、当時の私はあまり愛着を意識していなかった。それから、愛着関連の臨床をする先生方とつながったり、随分と書籍も読みあさってきた。ところが、この愛着を実際の生活やカウンセリングに反映させていくことが難しく、勉強会を作って2年ほど仲間と学んでもいる。というわけで、わかりにくい愛着理論をなるべく簡単に語ってみたいと思う。

あくまで私の理解だと断っておきたいが、愛着とは人間関係のテンプレートだと理解できる。愛着は3歳までに形成されるというフレーズはよく聞くが、この根拠は3歳児の親に対する反応は、7歳になってもほぼ同様であったという観察研究にある。つまり、3歳までに学習した人間関係のパターンは、その後も継続する可能性が高いということになる。親は子供に合わせて生活し、世話をするのだが、子も親に合わせて、生存を貫こうとする。基本的に、幼少期の子供は、世話をされないと生きていけない。世話をされるために、親からの注目や支援を得るために、子供ならではの適応パターンがあるということになる。これが愛着スタイルになる。愛着スタイルは、呼び名はいくつか存在するが、基本的には以下の4つになる。

愛着安定型:親(人)と一緒にいると安心する、離れると泣く(ゆくゆくは大丈夫になる)

愛着不安型:親(人)といると不安になる、感情的な反応で関係を維持する(拒絶や意見の相違に対して、怒りを爆発させたり、不安を強く訴える)

愛着回避型:親(人)に対して無関心、近づくことに不安(不快感)を覚える

愛着無秩序型:親(人)と一緒にいたい欲求と、そうでない欲求が無作為に表出する

不安型は、感情を感じることはできるけれども、制御することができない。回避型は、感情を制御することはできるが、感じることができない。不安型の方は、激しい感情表出や試し行動などが嗜癖化していき、対人関係が荒廃することが多いように思う。回避型は、過剰適応と努力を繰り返しているが、自覚があまりなく、過緊張であることが多い。いずれも、自分の心を俯瞰して、自分の思考や言動のパターンを自覚していくことと、少しずつこれまでと違った方法を練習していくことで変化していける。

この生き方は、幼少期に生存を維持するために身につけた関係のパターンなので、自覚がしにくく変えようとすると非常に大きな違和感を伴う。違和感というより、無意味感だったり、罪悪感が生じる。非常に気まずい感じ、やりにくい感じ、居心地が悪く、生きた心地がせず、すぐに元に戻したくなってしまうことが大変に多い。この感覚が芽生えること自体は、変化に必要なことであるため、支援者としても、簡単には変われないものだということと、愛着のパターンが再生されていることに気づけるように、水をむけていく(言葉で表現できるように助ける)ことが必要になる。

いずれの愛着スタイルでも、どこかで限界が来ることがあり、その時が変化のチャンスにもなる。それが精神疾患であったり、運動疾患であったり、発声障害であったりするように、私には思えてならない。これまでは、生き延びるために必要だった方法に無理が生じてくる。相手の注目を得るために、過激になり過ぎてしまったり、絶え間ない我慢と感情の抑圧で燃え尽きが生じていたりする。そうすることで生き延びてきたことを自覚しつつ、今の苦しみの理由を探りつつ、少しずつ新たな生き方を練習していくことだ。これは本当に大変な作業だが、続けていけば「こんなふうに生きていいんだね」と穏やかに言える日が必ずくると私は思う。

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